ハンドメイドの方がいい製品とは

手作りの車、どうでしょうか、魅力を感じるでしょうか。違うのです。私たちがハンドメイドとして魅力を感じるのは、そのようなものではないのです。手にとって使うものであればあるほど、私たちはハンドメイドの良さを感じるのです。

工業化されることが前提で存在しているもの、例えば自動車や電車、飛行機、高層建築物、コンピューター、家電製品などは、信頼できる工場で作られていた方がいいに決まっています。私たちがハンドメイドであることを好むものは、そのようなものではなく、「手にして使うもの」なのです。例えば身近なところでいけば「箸」などの「食器」です。これら生活のなかで必ず使うようなものは、ハンドメイドでないほうがいいのです。私たちはそれらのアイテムを利用することで人のあたたかみを直に触れて感じることができます。

そして何よりもハンドメイドであって欲しい物は「アクセサリー」です。直に身につけて自分を彩ることになるそれらのアクセサリーは、私たちにとってかけがえのないものです。私たちはそれらを身につけることで自分をより魅力的に見せたり、他人に対して優越感を感じたりするのです。それらのアクセサリーが工場で大量に作られたものであると、私たちはどこか不満を感じます。「誰もが持っているものはそんなに価値が高くない」と考えるものなのです。だからアクセサリーなどは間違いなくハンドメイドでなければ納得しません。

つまり、ハンドメイドであって欲しいものは、直に身につけたり、人が目にして価値を感じてくれたりするものなのです。ハンドメイドであるということはすなわち「多くは作れない」というものです。そのようなものを持っていたい、そのようなものを手にしていたいということは、私たちにとって潜在的な「欲」であるのです。そのように人が価値を感じないようなものがいくらハンドメイドであっても、私たちは「むしろいびつだ」として納得できないのです。「機能」が大前提の電化製品や工業化製品などは、むしろハンドメイドであれば少し不安に感じてしまうものなのです。

そして、不思議なことに現代に「ハンドメイド品」として残っているものはどれもがそのようなものばかりです。工芸品などは顕著です。機能はさることながら、職人の技術が芸術として光るようなものが、私たちの中で価値あるものとして残っているのです。私たちは自然と生き残ったそのようなものの数々に価値を認め、また欲しているのです。人の手から離れたほうが、むしろそのほうが良かったものに対しては、生産の緻密さや検品の確かさなどを求めるものなのです。不思議なもので、それは潜在意識としてどこか繋がっているかのように、ハンドメイドであってほしいものはハンドメイドとして残っています。

大量生産の安いもの、それで良い物はいいのです。ただ、大量生産で安いことが「嫌だ」というアイテムもあるのです。使う分には差し障りがなくても、人には誇れないようなものが、そこにあるのです。そのようなものは今後もハンドメイドであって欲しいと願っていますし、それをつくり続ける職人の、人間の技術を守っていきたいと考えるものです。ハンドメイドであってほしいものは、ずっとハンドメイドであり続けるのです。