ハンドメイドの基準とは

どのようなモノを「ハンドメイド」と呼んで良いのでしょうか。「ハンドメイド」に対して何か「基準」はあるのでしょうか。また、そのような基準があったとして、少しの「差」でハンドメイドとは呼べなくなったアイテムには価値はないのでしょうか。

ハンドメイドと聞いてイメージするアイテムはそれぞれ違うと思います。例えば衣料が頭の中に思い描かれたとしましょう。「手編みのマフラー」、「手編み」とはハンドメイドです。ですが、もしかすると「手編み」で大量に作られた「生地」を用意しておいて、機械によって裁断し、機械によって仕上げているかもしれません。それは「ハンドメイド」でしょうか。確かに生地は「手編み」です。私たちの肌に触れる部分、手で触れる大半の部分は「手で編まれたもの」です。ですが、それを最終的に加工したのが「機械」であれば、その生地の価値は失われてしまうのでしょうか。仕上げが「機械」で行われただけで、そのアイテムは色あせてしまうのでしょうか。

また、ハンドメイドのカスタムPC、というものが想起されたとしましょう。カスタムPCとはいえ、部品単位で掘り下げていけば既成品にたどり着きます。筐体を手で、アルミで削りだすわけにもなかなかいかないものですし、ハンドメイドで作れるPCの中身は、実は世の中に溢れる部品の集合です。それは「組み合わせ」の妙に価値があることで、機能に応じてカスタマイズされた仕様に価値があるのです。そのカスタムPCを手で組んだとしても、工場で組んだとしても、実はまったく同じものができます。さらには工場の方が精巧に組み込めることもあるかもしれません。「価値」は変わらないのです。

ハンドメイドにどんなイメージを持っているか、どのようなところに「価値」を見いだすのか、どのような理由で「それがハンドメイドでなければいけない」のかということを、もう一度考えてみたいものです。確かに精巧な細工を施したアクセサリーなどは、工場では「再現が不可能」なのかもしれません。そのデザイン、その細工は、「職人」の手によってでしか成し得ない仕事なのかもしれません。本来のハンドメイドの「価値」は、そのような「唯一無二」の点です。ただ、必要な機能、必要な仕様を満たしたものが同時に存在しているのであれば、それはそれで価値があるものなのです。ハンドメイドが優れているということは何もありません。ハンドメイドのカスタムPCが、工場のPCよりも丈夫であるということはないのです。工場のPCよりも丈夫で、同じ構成なのに演算能力に優れているということはないのです。

ハンドメイドと銘打っておきながら、その実工場で大量生産されているような場合は、それは「虚偽記載」になるのですが、それでもそのアイテムの「本質」は変わりません。工場での大量生産が、何かそのアイテムに悪影響を与えるのかというと、そういうわけではないのです。「ハンドメイドにこだわる」という人もいるでしょう。工場で大量に作られたものが気に入らない人もいるでしょう。ですが、その「モノの本質」を考えてみると、「別にどちらでも良い」ということが結構あったりするものなのです。どこに「こだわる」のか、ということは人それぞれですが、「本質」は変わりません。