「職人」という存在

何かを作るために特化した存在、それが「職人」です。「職人」はその「仕事」に特化した人です。世の中にはさまざまな仕事があります。すべての仕事をすべての人が網羅することはまずできません。

そのアイテムを作るためには、もしかするととてつもない長い道のりを経て得られる経験が必要不可欠なのかもしれません。簡単につくれるようなものというのは、世の中には少ないのです。私たちはそれぞれが「仕事」を持つものです。それは「対価を得るため」でもあり、対価を得るのは「生きるため」です。そのモノがこの世に存在するのは、誰かが「仕事として作った」からです。今身の回りにあるもの、今身に着けているものは、私たちがお金を出して「買った」ものであるはずです。それらのアイテムを買うことで、間接的にそれらのアイテムを作った人にお金を支払っていることになるのです。

直接その製造者から購入した場合は直接支払っていることになります。ですが、店頭で買った場合でも、それを店頭に並べるためにさまざまな取引があり、紆余曲折があるわけです。お金を支払うのは店頭に対してだったとしても、そこに並んでいる時点で製造した人にはお金が支払われているものです。そして、店頭で誰も買わないようなものはそもそもお店に並ぶことはありません。

「作る」ということは崇高な仕事です。道路を作らなければ車は走れません。車を作らなければ道路は人が歩いているだけです。道路を作るための重機がなければ道路は作れません。それら車や重機を作るためにはさまざまな部品が必要であり、それらを誰かが作られなければそもそも何も作れないということになります。人の「作る」が積み重なって今の社会があります。何かを作るための「工場」も、誰かが「作る」わけです。私たちは「作る」ということを重ねて生きているのです。

「職人」という人はその「作る」という連鎖の「原点」にいる人です。私たちが持つ知識の中で、最もシンプルな「自分で加工する」という技を極めた人のことを職人といいます。そのような存在がなければこの世に生まれなかったものもあります。緻密に計算され、設計された自動車でも、職人が加工する「ひとつの部品」がなければ完成しないかもしれないのです。機械ではどうしても加工ができないような部品が存在するものです。それらを手で加工することができる人、理屈ではなく、経験と感覚で感性させることができる人のこと、それが職人です。

何も陶器や工芸品だけではないのです。私たちが手にしている近代文明の産物の中にも、職人の技が生きているかもしれません。それは表にでることはなく、常にそのアイテムの内側にひっそりと存在しているだけかもしれません。ですが、それがなければその製品は成立していないということです。それが「職人」の存在理由であり、樹会コンピューターが辿りつけない領域なのです。

人の技術は人しか再現できないということもあります。どれだけ技術が進歩しても、そのような職人の仕事を超えられないということもあるのです。それらの恩恵を多分に受けていても、その存在を感じることは、一般の人ではあまりないのが寂しいところではあります。