常に愛用したいものはしっかりと選びたい

私たちには「いつも使うもの」というアイテムがあるはずです。それは生活の中で自然とそうなっているものから、仕事で仕様するものまでさまざまでしょう。人によって違うような場合も多いです。

「いつも使うもの」は、自然とよく手に馴染んで、自分が使いたいように使っているものです。そのようなアイテムにこだわりを持つという人も中には多いのです。仕事で特定の道具を用いている場合、その道具によって「稼いでいる」といってもいいのですが、それらの道具に全幅の信頼を寄せて「共に仕事をする」という意識が芽生えたりするものなのです。それは私たちが勝手に思い込んでいる「そのモノの意志」なのもしれませんが、それらの意志はあながち間違いではないかもしれません。

人の手によって作られた「モノ」には、ある特定の意志が存在しています。それはそのアイテムが自発的に発するような意志ではありません。そこにあるのは「それを作った人の意志」です。それを設計した人、或いはそれを直接作り上げた人の意志が、そのアイテムには込められているのです。それらはそのアイテムに隠された「メッセージ」のようなものです。私たちは日頃そのアイテムを用いることで、それらの「メッセージ」を自然と感じ取っているのでしょう。機能的に洗練された道具であれば、「その仕事をするために特化した」素晴らしい洗練性に気がつくことでしょう。自分を彩るために用意されたものであれば、それらの持つ色彩やデザインから気品や情熱を感じ取ることもできるのです。

何かが「在る」ということは、「誰かが作った」ということです。「作る」ということはとてもクリエイティブなもので、それが工場での大量生産によるものであっても、元々の設計は「人」が行ったものなのです。私たちはそれらの道具を手にしたときに明らかな「人の意志」を感じ取ることができます。それは「私たちが使いやすいように」であるとか、「もっと便利な世の中に」という明確なものです。

普段使うものであればあるほど、それらの意志と隣合わせになります。私たちはそれらの内なるメッセージを、そのアイテムが発する「意志」だと思っているのです。そのように錯覚しているわけです。それはあたかも「道具」が発した意志のようでいて、実はその向こうにはそれを作った「人」の意志であるのです。

毎日使うもの、仕事のために使うものなのであれば、それらの意志が「崇高」であるものがいいのは明白です。明らかに低コストで大量に仕込まれた、「そこに並べるためだけに作られたようなもの」からはなかなか感じ取ることができない意志です。普段使うモノからは人の暮らしを良くしたり、誰かにとって幸せであったりする、明確な「道具に込められた願い」を感じ取りたいものです。そのような意志を発するアイテムは、やはり少し高いものですが、そのようなモノを選ぶということが「こだわる」ということであり、同じ機能であっても「少し違う」だけで印象が大きく変わるものなのです。いつも使うもので、「新調しよう」と考えているようなものがあるのであれば、少し「高い」ものを選んでもいいのではないでしょうか。そしてそれらのアイテムから「作った人の声」を聞いてみましょう。