販売せずに自分で楽しむハンドメイド

何かを「作る」ということはとても価値あることです。自分の感性を埋め込んだり、技巧を凝らしたりすることで、私たちは言葉では表せないカタルシスを得ることができます。

そのような取り組みは、プロからアマチュアまで老若男女問わず続けられています。「作る」ということ自体が楽しいわけですから、別にそれを「売る」ということを行わなくてもいいわけです。「ただ作れれば満足だ」という場合もあるものなのです。私たちはそれを「作る」という行為を楽しむことができます。

不思議なもので、作っている最中は「早く完成させたい」、「完成形を自分で楽しみたい」と願っているものです。ですが、いざ完成してしまうと次の創作に心が向かうのです。完成したものをおろそかにするわけではないのですが、完成した後、それで満足して「もう作らなくても良い」ということにはならないのです。私たちの創作意欲は、「生きるためのエネルギー」のようなものです。ただ呼吸をしているだけでは退屈で、だけども何かを押し付けられて流されるだけの生き方は好きじゃない、自分はもっと何かができるはず、自分がカタルシスを得られる何かがあるはず、そんなことを考えて、私たちは生きているものです。そのための「創作」は、別に「売れる」とか「売れない」ということは関係ないのです。

もちろん、それが「仕事」になってしまえばそれはそれで酷な「仕事」になります。自分が作りたいものと、周囲が求めるもの、対価が支払われるものは別なのです。「創る」ということに関しては「自由」でなければいけません。その結果「対価」がついてくるということもありますが、100パーセントその創作が「仕事」になってしまうと、「自分が好きで作りたいもの」と、人がお金を支払ってくれることが「合致」しないと続けることは困難です。「仕事としての創作を続ける」ための、自分のストレス発散、カタルシスとしての「別の創作」が存在したりするわけです。

創るということ、何かを考えるということ、イメージするということは大変なことですが、崇高なことです。没頭すれば、いつの間にか時間が経っていて、自分が時間を飛び越えたような錯覚を得ることになるでしょう。私たちはそれほどまでにイマジネーション豊かで、何かに集中することができる生き物なのです。野生の生き物は「生きる」ためにその時間のほとんどを費やすものですが、私たちの叡智は自分が生きるための最小限度の社会整備を成し得ていて、持てる「エネルギー」を創造に傾けることができるようになっているのです。それは幸せなことでもあり、社会がさらに発展するための土壌ともいえます。

私たちが考えること、創造することをやめない限り、有名、無名問わず創作物が世の中に溢れることになります。私たちのイマジネーションは時には時代を動かすこともあります。時代の流れを変える、イマジネーションのチカラ。それは誰もが持っているものであり、だれもが何かを求めて、何かを夢想して、それを具現化するために作り続けることができるのです。私たちの豊かな精神性は、自分たちが生きるために必要なことを乗り越え、世の中を彩るための、心を豊かにするための力となっています。