機械生産が品質を一定にした

私たちが何か「モノ」を手にする時に気にするのは、その「品質」です。それは対価を支払って購入したものであるから、どうしても気になってしまうものなのです。

私たちは「品質」という言葉に敏感です。それは私たちが「資本主義」という枠組みの中で生きているためであり、資本主義は私たちに「お金の大切さ」を強いる仕組みであるからです。「損」や「得」という概念は、私たちが共通して持つ「お金」の価値に基づくものであり、お金の価値は私たちに「働く」ということを自然と促すものになりました。私たちは限られた資本をどのように使って、どのように生きていくのかということを考えるのが「当たり前」になったのです。そんな私たちが「自分が買うもの、手にするもの」に対して「品質」を求めるのは当たり前ということです。

現在流通しているほとんどのものは「機械」によって作られたものです。機械は人間とは違い、動力さえかくほしていれば常に同じ仕事を続けることができます。機械がどれだけの速さで動けるのか、どれだけの速さて生産を続けることができるのかということが、そのまま「生産能力」ということになります。そして人間とは違い、機械は「一定のクオリティ」を保つことができるのです。一定のクオリティを保つことができれば、それはそのまま商品として販売することができます。

逆にこれが人間だけの仕事であれば、それは人の手を介するということになります。人の手を介するということは、それだけ「リスク」でもあります。私たちは機械ではなく、血の通った人間です。休憩も必要ですし、さらには疲れが抜けなければ集中することもできなくなります。極力間違いのない仕事をしようとしても、私たちはどこか抜けてしまったり、ミスをしてしまったりするものなのです。それは「人間だから」にほかならないのですが、品質を一定に保つという部分においては残念ながら不向きであると言わざるを得ません。もちろん、「職人」と呼ばれるような人においては一切のミスも妥協も許されない状況で仕事をしているものであるのですが、それは「大量生産」という事に対して不向きである場合が多いです。

精巧なモノを沢山作ろうとすると、どうしても機械に頼らざるを得ません。そして私たちが「精度」を求める以上、機械の手からその仕事を奪うわけにはいかないのです。機械が機械としての仕事を続けられる以上、私たちの手ではどうしようもない仕事も沢山存在するのです。「効率化」であるとか「自動化」といわれるような仕事は、私たちが求める「品質」を一定に保つ代わりに、私たちが仕事を奪ってしまう存在でもありました。その裏で、人間にしか出来ない技を受け継いでいる職人という人たちも確実に仕事をしていました。ただ、職人の手によるアイテムはその数が少ないため、一般的に手に入るようなものではなかったのです。

私たちの暮らしを「今」支えているのは、自動化、効率化された工業用ロボットであり、生産ラインです。私たちはそのようにして便利さを甘受しながら、どこか「物足りなさ」を感じているのかもしれません。そして確実にどこかで存在している「職人」の仕事に対して飢えてきたのかもしれません。