誇りを持って作られているかどうか

その仕事に誇りを持っているかどうか、実はそんなことは関係なく毎日は流れていきますし、会社であれば給料がもらえるのです。ですが、「誇り」というものは私たちにとってはひつようなものです。

誇りというのはその仕事に対して自分の持てるすべての能力を込めたということです。誰が見ても文句のない仕事ができているという「自信」でもあります。誇りをもって進められた仕事、誇りをもってつくられたものは、その結果が顕著に違うものです。人によっては、境遇によっては、自分が納得するまで作ることが出来ない場合もあるでしょう。現代社会ではかけた時間というものは「コスト」になります。「コスト」は回収しなければ意味がない、回収した上でさらに稼がなければ意味がないのです。それがビジネスの鉄則であり、基本です。その枠から外れてしまうと、どのようなビジネスも破綻することになるのです。

限られた時間の中で最善を尽くすということ、限られた枠組みの中で最大限の結果を残すことが、現代社会では求められています。そのような取り組みを繰り返すなかで、私たちはいつの間にか「クオリティコントロール」などという概念を見出し、「売っても良い商品なのかどうか」ということを考えるようになりました。本当は、「売ってもいいかどうか」などは考えるまでもなく、「誰かに手にしてほしい」はずなのです。誰かに手にしてほしいということは最善を尽くしているはずで、最善を尽くしたものが「売ってはいけないレベル」であれば、そのようなものは存在してはいけないはずなのです。

ただ万全と仕事をしているような状態は不幸です。自分がこだわって作ったものではない、言われたからやっている、仕事だからやっている、仕方ないからやっているというよう状態では、良い物などは作れるわけがないからです。

「良い物」とは、誰が決めることなのか。

それは何をおいてもそれを「手にする」人です。それを手にする人がそれを「良い」と捉えてくれなければ、それを提供する意味がないのです。そのアイテムはそこに存在する理由があるはずです。そこに存在する理由となるのは「それを手にする人」です。「何のために作って、どんな人に使ってほしいのか」ということを考えれば、それがどのような意味を成すものなのかということがわかるはずです。どのような「責任」を負っているものなのかがわかるはずです。それを満たすことは仕事として「当たり前」であるということ、何かを提供するうえで「常識」であるということ、それがまず基本です。その上で、自分の「想い」がその商品に込められなければいけません。その「想い」がその商品にさらに価値を与えるのであれば、そこに「誇り」を持ってもいいのです。

ビジネス上仕方なく作られたもの、仕事だからといって最低限のことだけこなして作られたものは、そのような「誇り」に欠けているといってもいいでしょう。何かを作る、誰かに使ってもらうということはとても大変なことです。ですが、その大変さをビジネスの枠組みは容易なものとして世の中の「仕組み」として、成立させているのです。その中で失われつつある「誇り」、ハンドメイドのアイテムであれば、そのような「誇り」を多分に感じることができるのではないでしょうか。