究極のハンドメイドは「料理」

人の手を用いて作るもの、それはさまざまなものがありますが、料理ほど人の手を介するものはないのではないでしょうか。日々口にする料理の数々は、かならず誰かが作ったものです。

ハンドメイドのことを考えるうえで大切なことは、「人に料理を作るときのように作れるか」ということです。私たちは「食」に対してとても敏感です。科学が発達した今、食品にはさまざまな添加物が用いられています。それらの添加物は食品をより長持ちさせるためであったり、より美味しく食することができるためであったり、さまざまな目的で用いられます。ですが、それらは「化学薬品」のようなもので、なかには人体に有害なものも含まれているものです。人体に有害な添加物は、いくら食品を新鮮に保てたとしても意味がないのです。ですから、私たちはそのような添加物に対してとても敏感です。

科学技術の進歩は日々続いていますから、その時「良い」とされた添加物でも現在では「身体に良くない」とされている場合もあります。これは食品添加物だけのハナシではありません。建築に使われている材料なども同様です。「受け手のことを考える」ということは当たり前なのですが、ビジネスにおいてはごくまれにそれが度外視されてしまう場合もあります。そのような時、私たちは購入した商品が「消費者のことを考えていない」と感じた時は、「クレーム」として申し入れることがあります。もちろん、「クレーム」を言うこと自体にも労力がかかります。そのような直接的な行為に及ぶ人は少ないかもしれません。

何よりも、購入したものを「こういうものだろう」と考えるのが先にあるのです。私たちは自分が購入した商品をひとつひとつ検品できる「目」を持っているとは限らないのです。見た目と性能は比例するものではないですし、そのアイテムを売るために「キャッチコピー」などで訴求するのは当たり前のことなのです。「買ってもらわなければ売っている意味がない」からです。

そのようなことを考えると、どれだけユーザーフレンドリーなアイテムを提供することができるのかということが大切なことになってきます。その「姿勢」の究極形が「料理」なのです。家族に料理を作るときのことを想像してみましょう。料理は食べるために作ります。ただ見た目がいいというだけではなく、味もよく、栄養価も考えぬかたものでなければいけません。料理を作るときほど自然と「相手のことを考える時」はないのです。世の中のハンドメイド品もそうであるべきです。

作るのが好きであること、自由にデザインをしたいということ、それらはすべて作り手の「好み」であるのです。それはある意味自分の中だけで完結すればいいだけのハナシで、それを誰かに買ってもらおうと思った瞬間に「相手」のことを考えなければいけません。自分が「そうしたい」ということだけではいけないのです。料理を用意するなら少しでも美味しく、栄養のあるものを、と考えるものですが、それよりもいくぶんか自由なクリエイティブでは、そこに思い至る人があまりにも少ないのです。

私たちはモノの価値をそれぞれ考えるものです。それはデザインや機能、使用感などです。モノを作るということは、それらのすべてに責任を持つということです。