作ることの楽しさとは

私たちは自然と、「何かを作る」、「何かを考える」ということを続けるものです。ただ生きているだけ、何もせずに万然と暮らすだけ、ということはできないものです。

それは私たちが生きていくためには「お金」が必要であり、お金は「働いて」稼ぐものだからなのですが、はたして一生生きていけるだけのお金があったときに、私たちは何も考えずに、何もせずに、済むものでしょうか。実は、それでは「済まない」のです。ただなにもせず、食べて寝るだけの暮らしなど、私たちは耐えられないのです。それは私たちが「何かを残したい」、「誰かに存在を知ってもらいたい」、「何か没頭できることを見つけたい」と考えているからです。それはある意味、「生きている意味を見つけたい」ということにもなるかもしれません。

私たちがこの世に生を受けた以上、何か時間を忘れて没頭できることに出会いたいのです。なにか寝食を忘れて集中できることに、出会いたいのです。「何のために生きているのか」ということの答えを、得たいのです。だから私たちは考え、悩み、自分が生きる道を探すものなのです。「生きているだけでは足りない」というのが私たちの本質です。

その過程の中に「何かを作る」ということがあります。「作る」ということは、何かを創造することです。そして、作っている張本人にとっては、それが唯一のカタルシスを得られる行為なのかもしれません。何かを作るということは、自分がそこにいるという証のようなものです。それが後々「残る」ものなのであれば、それは自分が生きていた証拠として後世に受け継がれていくことでしょう。その「創作」を通じて、社会と接しているという感覚も得られることでしょう。自分の作品が認められたりすれば、それは自分の存在が認められたような感覚になるほど、「作る」という行為と「自分」というものを結びつけて考えるものなのです。

別に「プロ」でなくても、アマチュアでも、ただ趣味で楽しむだけでも、「何かを作る」ということにたくさんの人が関わっています。その行為は理屈ではなく「楽しい」もので、ただ自分が何かを作るだけでも良い場合もあります。誰に認めてもらわなくても、自分がただ良ければそれで良いということがあるのです。何かを作る、何かを残す、時間を忘れて自分の頭のなかの「何か」を、手に取れる形で、触れられる形で具現化するということが、私たちの「日常」なのです。

子どもの頃に画用紙に絵を書いたように、芸術作品が無限に世の中に溢れるように、私たちの創作意欲というものは尽きることがありません。私たちにとって「創る」ということはごく自然なことであり、良いカタルシスを得るための方法として一般的です。何が優れているか、どのようなモノが「売れる」のか、そのようなことは後で考えればいいのです。作ったモノに対して結果がついてくるのです。今、その道の「プロ」として何かを作り続けている人であっても、もともとはアマチュアだったはずなのです。「創る」ということは崇高なことです。その延長線上に現在の文明があります。創るということの結集が、現在の人類の文明です。私たちが考えることを辞め、創ることを辞めてしまえば、社会は一気に衰退するでしょう。