作り手の意志とは

どのようなアイテムであれ、それを作った人がいます。どのような役割を持つ道具であれ、それを作ろうと考案した人がいます。デザインした人がいます。それが工場で作られたとしても、その事実は変わりません。

電子機器であれ、アナログなアイテムであれ、「それを作ろう」と誰かが考えなければそれはこの世には存在しないのです。この世に存在するためには誰かが意志を持ってそれを「作る」必要があるのです。仕事でそれを作る場合、そのプロセスすべてが「コスト」です。コストは回収されなければいけません。コストを回収した上で、さらに利潤が出ることが、ビジネスの大前提です。

ただ、いくらビジネスでその「モノ」を作ったとしても、それがクリエイティブであることで変わりはありません。クリエイティブであること、それは人間だからできることであり、「最終形をイメージしてそれに近づける」ということが必要なのです。それは誰もができることではなく、その「仕事」にはそれぞれの分野で習得しなければいけない技術があり、それぞれの過程でプロフェッショナルでなければならず、最終的には誰が手にしても納得するようなモノを作ることが必要です。

工場で大量生産する場合と、職人がひとつひとつ手でつくり上げる場合に差があるとすると、それは「すべての工程に責任を持ち、自分で手を下すかどうか」ということです。工場では、オートメーションされていても、そうでなくても、それぞれの工程が「ライン」というもので結ばれていて、工程間を効率的に、そして素早く流れさせ、短期間で一気にそのアイテムを製造することになります。一パートでは、そのアイテムのひとつの箇所を、永遠に作り続けるのです。その「ライン」、つまり「流れ作業」こそが工場の基本であり、モノを大量に作るための原則です。ひとつひとつの工程を合理化し、ひとつひとつの工程を効率的に組み合わせることで、同じ時間で大量のアイテムをつくり上げることができるのです。それは「ハンドメイド」とはまったく逆で、さまざまな工程にさまざまな人が関わっているということになります。もちろん、それらの流れを監督する人もいます。それらの人はそのアイテムを設計した人であったり、その製造ライン自体に責任を持つ人たちだったりします。

ハンドメイドである場合、工場で分担していたような工程をすべてひとり職人が責任持って作業します。ひとつひとつの工程が自分の仕事であり、そのアイテムのどこを見ても作った張本人の意志が込められているものです。工場生産では得ることのできない、「人の気配」というものがハンドメイドで表現できるのは、それが意図したものではなくて「自然と込められる」製作者の「個性」なのです。これらの個性は工場生産品であれば、「いびつだ」として不良品扱いになります。ですが、そうではない場合、製作者がひとりですべての面倒を見て作り上げた場合は、意識しなくても「その人」が作ったものに反映されるのです。

「使いやすくしよう、持ちやすくしよう」と考えたものであれば、それを利用する人が直に触れる部分はより優しく、「人の目を惹くモノにしよう」と考えているのであれば、より洗練されたデザインに磨かれていくのです。